わろてんか|伊能活動写真のモデルは東宝!史実とはだいぶ違う

 

朝ドラ『わろてんか』では、伊能栞は義兄の伊能光司郎との関係が

こじれて、貿易会社の社長を解任されてしまいます。

 

義兄が正式に父親の跡を継ぐことになったことから、腹違いの弟には

何も残さないということになってしまいます。

 

とは言え伊能はすでに活動写真の会社である伊能活動写真を手掛けており、

今後はこちらの仕事に専念することになります。

 

この伊能活動写真のモデルこそ、現在でも映画や演劇の製作・配給、興行を

おこなっている東宝です。

 

 

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伊能活動写真のモデルは東宝!史実とはだいぶ違う

 

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伊能活動写真のモデルとなっている東宝ですが、設立は昭和7年(1932年)です。

 

阪急電鉄の創始者で伊能栞のモデルとなっている小林一三が、59歳の時に

設立した会社です。

 

小林は大正3年(1914年)に宝塚歌劇団の前身にあたる宝塚唱歌隊を作るなど、

もともとエンターテインメントには興味があったようです。

 

しかし後に大戦争を展開して日本の興行界を二分することになる

ライバルの松竹は明治35年(1902年)設立で、大正9年(1920年)には

既に映画(活動写真)の製作を開始していました。

 

松竹などの映画会社が元々が一介の興行師からスタートしたのに対し、

東宝は既に阪急電鉄グループの後ろ盾があるなど、バックボーンが

大きく異なっています。

 

そのため設立当初から豊富な資金力で大胆な戦略に出ており、昭和7年の設立

とともに東京に進出(当時は東京宝塚劇場の名称)しています。

 

さらに昭和12年(1937年)に東宝映画を設立して、映画製作もスタートさせています。

 

伊能活動写真のモデルは厳密に言えば東宝映画ですが、東京宝塚劇場と

東宝映画は昭和18年(1943年)に合併して東宝株式会社となっているので、

ここではまとめて説明します。

 

昭和9年(1934年)に東京宝塚劇場(社名と同じ劇場)を開場すると、

有楽座や日本劇場も手中に収めて、日比谷一帯を傘下に収めます。

 

と同時に資金力に物を言わせて、設立当時から他社のスターたちを

高給で引き抜いています

 

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このあたりで有名なのが昭和12年(1937年)に松竹から引き抜いた

長谷川一夫(当時は林長二郎)で、後に襲撃事件に発展しています。

 

(長谷川一夫)

 

他にも東宝は高田稔や岡譲二、大河内伝次郎、花井蘭子らのスターを

他社から横取りして映画界に波乱を起こしています。

 

他にも松竹が借りていた帝国劇場を買収するなど、東宝はかなり強引に

興行界に殴り込みをかけており、後に松竹とは大戦争に発展することになります。

 

そして東宝と吉本興業部の関係ですが、東宝映画が設立される前年の

昭和11年(1936年)に両社は業務提携しています。

 

これは東宝側としては映画に出演する俳優のコマ不足を解消するためで、

吉本側は当時は映画の可能性を感じており、所属芸人を映画出演させたい

意向だったことから完全に両者の利害が一致したからです。

 

また吉本興業部は昭和2年(1927年)に松竹から所属芸人を引き抜かれそうに

なっており、「アンチ松竹」の体質も多分にあったことから東宝と手を組んだのでしょう。

 

両者の関係は終始良好で、吉本せいの実弟の林正之助が東宝の取締役を

務めたこともあり、またせい自身も小林一三のご意見番を務めていたとも

言われています。

 

実際に横山エンタツや花菱アチャコが出演した喜劇映画などが

ヒットしており、両社の提携は成功を収めています。

 

ドラマの伊能活動写真は伊能栞が苦労を重ねながら育てていくようですが、

モデルとなった東宝はいきなりドドーンと作られています。

 

また前記のように創設期の東宝はかなり強引なやり方で興行界に入り込んで

いきますが、ドラマではこのように描くことはないでしょう。

 

そのため伊能活動写真も伊能栞と同じように、モデルと言っても

大まかなフレームのみの拝借で、実質的にはドラマオリジナルの会社

となるはずです。

 

とは言え、伊能が念願の日本製の活動写真を普及させるさまなどには

注目ですね♪

 

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